Blog

富津市の人口はいつから減り始めたのか

 

南房総に暮らしていると、富津市はいつも視界のどこかにいる存在だ。
国道127号を車で流せば、木更津方面へ自然と吸い込まれる。富津岬に向かえば、富津公園の松林が匂い立ち、金谷港では東京湾フェリーの白い船が視界を横切る。

観光としての顔ははっきりしている。
けれど、富津市の人口がいつから減り始めたのかとなると、少し曖昧になる。
調べれば出てくる情報ではあるが、納得できる説明は少ない。

だから今回は、人口減少の「はじまり」を丁寧にたどってみた。
数字だけで終わらせず、木更津市や君津市、袖ケ浦市など周辺自治体との比較を交え、さらに同じ人口規模の長崎県長与町と栃木県壬生町とも並べて考える。そこに見えてきたのは、富津の特徴そのものだった。

 

富津市の人口減少は1985年がターニングポイント

「減り始め」とひとことで言っても、その定義は難しい。
月単位で見ると増減が揺れるし、年単位でもゆるやかな波がある。私はここで、長期的な人口動向がはっきり見える国勢調査の折れ目に注目した。

その中で、富津市の人口が最も多かったのは1985年ごろとされる。
そして、その年を境に減少傾向へと入った。
つまり、はっきりした山を迎えたのが1985年。その後の1990年代には、増加から減少へ確実に転じていたと見るのが自然だろう。

ここまでは事実。
でも私は、1985年という年をただの数字として扱いたくなかった。
ほかの自治体と比べてみることで、なぜ富津だけが早く山を越えたのかを考えたくなった。

 

木更津・君津・袖ケ浦と比べると

富津市は人口減少のスタートが早かった

同じ内房地域でも、人口の曲線は意外と揃っていない。(富津市の人口動態
この不揃いが、富津市の減少開始を際立たせているように思う。

たとえば木更津市は、ここ最近も人口が増加傾向にあり、館山自動車道でのアクセス性がその背景にある。富津中央インターチェンジから木更津方面へ出る感覚は、地元の人間には日常に近い。

袖ケ浦市は、人口横ばいから微増を続けており、住宅地としての余地が感じられる。

一方、君津市の人口ピークは1990年代に入ってから。富津よりも10年ほど遅れている。このタイムラグは、決して小さくない。

富津は、周辺よりも先に「山を越えてしまった」。
その理由として思い当たるのは、やはり国道127号沿いの生活導線だ。
この道路が、富津市内の暮らしを周辺と接続しやすくしている。その結果、富津で完結していたはずの生活が、少しずつ外に漏れていく。そうなると、自然と人口も流れ出していく。そんなイメージが浮かぶ。

 

富津市と同規模の町はどうか

長与町と壬生町はピークがもっと後

富津市の人口は、直近ではおおよそ4万人台。
この規模感で似た自治体として名前が挙がるのが、長崎県の長与町栃木県の壬生町だ。(全国市町村人口ランキング

長与町は長崎市のベッドタウン的な性格が強く、人口のピークは2000年代中ごろ。
壬生町も同じく2000年代半ばをピークに減少に転じている。
つまり、同じ人口規模でも、減り始めた時期は20年ほど違ってくる。

ここで気づいたのは、人口規模が同じというだけでは、本質的な比較にはならないということ。
それぞれの町が果たしてきた役割の違い――たとえば、住宅地として発展したか、観光と通過交通に支えられてきたか、あるいは産業との関係性――こうした背景が、ピークの時期を分けているように思う。

 

富津市の観光地が多くても

人口増加には直結していないという現実

観光地としての富津市は、内房エリアでも特に顔が立っている。
富津岬、富津公園、展望塔、金谷港、東京湾フェリー、マザー牧場、東京湾観音。

外から来る理由には事欠かない。
けれど、外から「来る」理由と、そこに「住み続ける」理由は、まったく別物だ。

観光は、週末や連休には強い。
しかし人口を支えるのは平日の職場、学校、そして買い物の選択肢だ。

日常の買い物なら、イオン富津店の存在は大きい。けれど、さらに広い選択肢を求めると、どうしても木更津方面へ足が向く。

結果として、観光の強さと定住の強さは比例しない。
それどころか、観光に特化すればするほど、日常の生活機能が不足しやすくなる。
私はそこに、富津市が1985年という早いタイミングで人口のピークを迎えた理由のひとつがあるように思っている。

 

富津中央ICと国道127号

アクセスの良さが人を吸い出す構造に

国道127号は、富津市の骨のような道だ。
そして、館山自動車道の富津中央インターチェンジがあることで、木更津や都心方面へのアクセスはとても良い。

この「アクセスの良さ」が、富津にとってプラスだけとは限らない。
スピードが上がると、生活圏の境界があいまいになる。
あいまいになればなるほど、強い中心に人が引っ張られていく。

仕事、学校、ショッピング。
それらが集約された木更津の存在感が強くなれば、富津市は選ばれにくくなる。

富津が他よりも早く減少局面に入ったのは、この「引力の強さ」を早くから受けていたから。そう考えると腑に落ちる。

 

富津市の人口減少は1985年ごろから

周辺との比較で見えてくる早さの意味

国勢調査ベースで見れば、富津市の人口が減り始めたのは1985年ごろ。
この年をターニングポイントとして見るのが自然だ。

木更津市や袖ケ浦市はその後も増加または横ばいの時期が長く続いた。君津市ですら、ピークが1990年代に入ってからだった。

それに比べて、富津市は明らかに早い。
さらに、長与町や壬生町のように、規模が似ている町ですら、ピークは2000年代に入ってから。

富津市は、観光と通過交通の強さを持ちつつも、生活の重心が周辺に溶け出しやすい構造をしている。
私はこの構造そのものが、1985年という「早い減少」のきっかけになったと感じている。

今でも富津岬から海を見下ろすと、土地の形そのものが風に溶けていくような感覚になる。
その風の中に、あの年を境に静かに減り続ける人口の流れが重なって見えてくる。そんな気がしてならない。

 

 

富津市   2025/11/05   南暴走人
≪ 船橋市652,495人🚢✨ 南房総から見た“都会の勢い”と潮の香り  |  鴨川市29,543人になったってさ🌊 それでも海は今日も青い ≫